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2024年01月の記事は以下のとおりです。

ウィーンのフリーメイソン(自営石工)

正式には組織名をフリーメイソンリー、その会員をフリーメイソンと呼ぶそうです。

時はバロック時代、1717年ロドンで成立後、ウィーンは1742年マリア・テレジアと夫フランツ・シュテファンの時代からでした。

 

その始まりは、発掘調査で明らかになった大規模な火山噴火により、日本から散ってい行った先で開花したスメラミコト文化(スメル=シュメール)、またはメソポタミア文化であり、古代エジプトのピラミッドや古代ギリシアのパルテノン神殿に代表される石工たちの仕事でした。時代こそ違えど隕石衝突や地球の火山活動という大規模な環境変化は恐竜たちを滅ぼし世界最古の縄文文化にも大きな影響を与えたことは大変興味深いことです。この人知を超えた大災害は、古神道に見られるように、自然に対する敬畏という感覚で日本人のDNAに刻まれたのだろうと思ってます。DNAが外的環境でで変化し、生後の環境や経験や思いがDNAを変化させ、それが遺伝することも判明してます。現状では古代日本の石室構造や、山頂に運び上げられた巨石の文化、古代日本のペトログラフ(絵)またはペトログリフ(彫刻)、神代文字やカタカムナ文字、ヲシテ文字など明確性に欠けた話が飛び交ってますが、これからの数年間で整理が進むことが予想され、それによって世界の古代史解明にも繋がってゆくのは間違いのないことだと思います。

 

さて、ほぼ全ての古代ローマの文化は古代ギリシア文化の模倣ですから、古代ギリシアから古代ローマへと移されたものが、中世の1千年間の空白期を経てルネサンスへと伝わったと考えられます。

もちろんルネサンスは宮廷文化の黎明期と考えられますから、続くバロック時代にそれが発酵して組織化されたと考えてます。

 

一応、確認しておきますが縄文文化は、だいたい1万5千年間ぐらい続いたことがわかってます。西洋文化の始まりはメソポタミア文明ですが、イエスが生まれる頃まで3千5百年間程度の長さです。
現代は紀元後2千年ですから、今から遡ること5千5百年、長く見ても6千年前の話です。
日本の縄文文明は2万年前の話です。関東以南の日本人の多くには1割程度しか縄文DNAが残ってないことがよく知られてますが、これは1万5千年から2万年も諍い無く人殺しの武器も不必要だった縄文人を、大陸から入ってきた弥生人が人殺しの武器で駆逐してしまったからでしょう。
そして、自分たちの正当性を主張するために、それまでの日本の首長たちを王ではなく神としてしまった。この渡来人達は好戦的な野心家だったわけですが、その頃の日本は互いに戦い合う乱世だったと魏志倭人伝に記されてますし、これについては記紀を注意深く読めば誰でも理解できることだろうと思います。
因みに大陸人が蔑んで「卑弥呼」と書いた「太陽の巫女」は必ずしも女性とは限らず、また役職名だったことから一人とは限らないことが最近わかってきました。都を表した「大和」も遷都され移動したことを思うと一ヶ所ではなかったと考えられます。
当たり前ですが、世界史の一部が日本史であり、日本史は世界史の一部でもあるわけです。

 

フリーメイソンという組織については、先ず、日本のウソつきテレビの情報を頭から一掃する必要があります。日本のテレビと新聞は世界的に見ても最も嘘が多いです。これについてはマスコミの嘘の割合が国ごとに示された研究が知られており、日本のマスコミのレベルは北朝鮮や中共中国以下です。

テレビによるお金のための嘘ではなく、ちゃんとした学術的な書籍が日本語でも多く出版されてますし、最近では本を買わずとも、ネット検索で様々なサイトがヒットします。もちろん玉石混交ですから、出元が御用学者かどうか、ポジショントーク如何についての判断が求められます。

ウィーンにおけるフリーメイソンの歴史その他については、市の行政サイトの歴史ページにも出ており、そこからリンクを辿ることもできます。ドイツ語や英語ですから読解が少し面倒ですが、今ではネット翻訳も可能ですから地道に読み解けば、日本の文献の種本に当たる原本に触れることができ、その方が確かな情報なのではないかと考えられます。

場所はモーツアルト最期の記念版の向かい側です。

ウィーンはバーベンベルク時代から直径1キロメートル程度の城壁に守られてました。1683年の第2次トルコ戦でトルコの脅威から開放されると市街地がその市壁の外に拡大してゆき、将軍オイゲン公の進言でマリア・テレジアの祖父レオポルド1世が2本目の城壁LinienWallを建造します。

それでも人口増加による旧市街地内の住居不足対策で旧市街地の中は一軒家が禁止されていたはずが、教会とご領主様の屋敷以外に、この建物も一軒家です。マリア・テレジアの旦那、皇帝フランツ・シュテファンが会員だったぐらいですから当然といえば当然なのでしょう。

3本の道に囲まれた三角形の一軒家、扉の模様、ドアノブ3点が表す星座、入り口上部に下げられた石、扉両脇のフサ飾り、左右の柱などが特徴です。

カフェ・モーツアルト

ウィーンのカフェ文化はユネスコの世界遺産です。

特に帝政時代からの伝統を守り続けるカフェは特別で、立地条件、入り口の位置と形状、店内の雰囲気とサービスをするウェイターやウェイトレスの出で立ちと客あしらい等など多くの約束ごとにより成り立ってます。これの詳細は別の機会に譲り、今回はカフェ・モーツアルトの話です。

参照 ⇒ ウィーンのカフェ紹介

オペラ座の裏、ホテル・ザッハーの脇に有名なカフェ・モーツアルトがあります。ウィーンで一番の社交の場とも言える王宮劇場の脇に店を構えるカフェ・ラントマン系列のカフェです。

モーツアルト像はそこから数百メートル離れた王宮庭園内です。この像は帝政末期の19世紀後半にウィーンで活躍した彫刻家ビクトール・ティルグナーの傑作です。観光名所として知られる王宮や美術史美術館に至近でリンク通りに面しているので、像の足元のト音記号の花模様とセットで、観光の写真ポイントとして知られてます。

19世紀後半のウィーンはGruenderzeitと言われる現在のウィーンという都市の基礎が確定した時代でした。

現在の国立オペラ座は19世紀後半に直径1キロ程度の城壁を取り壊したときにその界隈に建造された帝国歌劇場です。それまではその城壁の直ぐ内側にケルンテン門劇場がありました。

詳細は、今では絶版の1997年出版「ウィーン観光詳細ガイドブック」に記しておきました。この本は40年間のウィーン生活からの引き上げ時に破棄してしまったのですが、手元に残った本の草稿一部はWebに無料公開してあります。

さて、そのカフェモーツアルトの名前の由来になったオリジナルのモーツアルト像の写真が、数テラバイトのバックアップファイルから出てきました。元画像はいつしかWebから消えてしまったようですが、消滅時に備えて保存しておいたものです。

ドイツ語の文献にはモーツアルト像のカフェと出ていても、どの位置にどちら向きに像が立っていたかという疑問の答えにはなりませんでした。しかし、この戦前の写真にはオリジナルのモーツアルト像の背後にカフェ・モーツアルトが写ってます。戦前の貴重な記録写真です。戦前の映画「第三の男」を観ると、脚立の上で窓拭きをしているところがカフェ・モーツアルト入り口です。

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